そもそも息子をどう育て上げたいのかという、究極のゴールを考えないといけない。そう気づきました。
モンテッソーリ教育も、早期英語も、絵本の読み聞かせも、全ては「何のために子供を教育するのか?」を明確に親がもっていないと、やらせっぱなしになります。
ただ育てるのならば、日々の衣食住を保障すればいいのですが、「教育」となると変わります。ねらいがなければいけません。
最近、思うのは、どうせ20歳ごろになったら、どんなに頑張って教育しても巣立ってしまって自分のことなんて何一つ考えないのだろうなーということです。自分もそうでしたから、よくわかります。特に男は。
逆に20歳を過ぎても、ずっと親の元でいられるのも困りますが。
もしも適当に教育したらどうなるのか。興味はあります。ただ育てるだけ。どうなんでしょうか。それでも勝手にすくすく成長する可能性もあります。
子育ての難しさは「もしも(if)」がないところです。もしも読み聞かせをしなかったら…もしも外でたくさん遊ばせなかったら…もしもこのおもちゃをあげなければ…などなど。
だからこそ、自分で明確なゴールを持ち、「そこに向かっているから、今この教育を子供にさせるんだ!」と言語化できないといけないと思うのです。
究極のゴールは「自立」でしょう。しかしただ「自立」するだけなら、別に早期の習い事などいりません。「幸せになってほしいから」? しかし、例えば自分の子供が将来、道徳的にまずいことをしていても、自分の子供が幸せだと言っていればそれでいいの?
なんとなくしっくりきているのは、「将来、私(親)に依存しないで、自分の人生を切り開けるようになってほしい」という願いです。
そのためには、最低限の学歴や体力は必要でしょう。コミュニケーション能力も、他人を思いやる力も大事になってきます。正直言って、20歳過ぎても(というか15歳ぐらいから)もう一人立ちしてほしいです。子育ては大変です。
昔の日本の教育は「知徳体」で成り立っていましたが、うまくできているなと感じます。バランスよく育てていきたいものです。
別に、戻ってきてほしいとも思わないなーと考えたとき、なるほど、私(親)は結構淡泊な人間なのかもしれないと気づきました。
何のために教育するのか?
これは正解がない問いですね。でもきっと大事。